iPS/ES細胞を用いた精神・発達神経疾患の病態解明と創薬:脳オルガノイド研究の最前線
はじめに
精神疾患や発達神経疾患は、その複雑な病態メカニズムが十分に解明されておらず、有効な治療法が限られているものが少なくありません。脳という高度に組織化された臓器の機能障害を、生体のまま詳細に解析することは極めて困難であり、適切な研究モデルの構築が長年の課題でした。
近年、iPS細胞(人工多能性幹細胞)やES細胞(胚性幹細胞)といった多能性幹細胞技術の進展は、この分野の研究に革新をもたらしています。これらの細胞から、目的とする神経細胞やグリア細胞を誘導し、さらに複雑な脳組織を模倣した三次元構造体である「脳オルガノイド」を作製することが可能になりました。これにより、疾患の病態をin vitroで再現し、そのメカニズムを詳細に解析する新たなアプローチが開かれています。
本記事では、iPS/ES細胞技術、特に脳オルガノイドを用いた精神・発達神経疾患の病態解明と創薬研究における最新動向について解説いたします。
患者由来iPS細胞を用いた疾患モデル構築
精神疾患や発達神経疾患の多くは、遺伝的要因と環境要因が複雑に関与して発症すると考えられています。患者さんから採取した体細胞(例:皮膚線維芽細胞や血液細胞)からiPS細胞を作製することで、その患者さん特有の遺伝的背景を持つ神経細胞や脳組織をin vitroで再現することが可能になります。
この「疾患特異的iPS細胞」から誘導される神経細胞は、疾患に特徴的な機能異常や形態変化を示すことが報告されています。例えば、特定の遺伝子変異を持つ患者由来iPS細胞から作製したニューロンが、シナプス機能の異常や軸索伸長の障害を示すなど、疾患の病態の一端を分子・細胞レベルで捉えることが試みられています。
これらの細胞モデルは、
- 疾患の原因となる分子・細胞メカニズムの特定
- 疾患に関連する遺伝子の機能解析
- 新たな治療標的候補の探索
といった基礎研究において強力なツールとなっています。
脳オルガノイドによる三次元病態モデル
従来の二次元培養では、脳の複雑な層構造や多様な細胞種間の相互作用、ネットワーク形成といった生体脳の特徴を再現することが困難でした。これに対し、iPS/ES細胞を三次元的に培養することで誘導される脳オルガノイドは、胎児期の脳発生過程を模倣しながら自己組織化し、より生体に近い細胞構成や構造を持つことができます。
脳オルガノイドを用いることで、単一の細胞レベルでは捉えられなかった、組織全体としての機能障害や、異なる細胞種間の相互作用異常を解析することが可能になりました。
精神・発達神経疾患研究における脳オルガノイドの応用例としては、以下のようなものが挙げられます。
- 疾患特異的な発生・分化異常の解析: 特定の疾患において、神経前駆細胞の増殖異常、神経細胞の移動異常、皮質層形成の異常など、脳発達過程における障害をオルガノイド上で再現し解析する。
- 回路・ネットワーク機能異常の評価: オルガノイド内の神経細胞ネットワークの活動電位や同期性などを計測し、疾患に特異的な機能異常を評価する。
- 非神経細胞(グリア細胞など)との相互作用解析: オルガノイド内で誘導されるアストロサイトやミクログリアといったグリア細胞と神経細胞との相互作用を解析し、病態における非神経細胞の役割を明らかにする。
これらの研究により、例えば自閉スペクトラム症モデルオルガノイドにおける細胞増殖の異常や、統合失調症モデルオルガノイドにおける神経活動の低下などが報告されており、疾患の病態理解が深化しています。
脳オルガノイドを活用した創薬スクリーニング
脳オルガノイドは、病態をより忠実に再現したin vitroモデルとして、創薬研究においても大きな期待が寄せられています。疾患特異的なオルガノイドを用いて、多数の化合物ライブラリーや既存薬の候補に対して薬効を評価するハイスループットスクリーニング(HTS)を実施する試みが進められています。
これにより、
- 疾患の原因分子や病態メカニズムに作用する新規化合物の探索
- 既存薬の精神・発達神経疾患に対する薬効評価(ドラッグ・リポジショニング)
- 化合物の神経毒性評価
などが、より生理的な環境下で効率的に行える可能性があります。オルガノイドを用いたスクリーニングはまだ発展途上の段階ですが、疾患モデルとしての質の向上とともに、今後の創薬プロセスを加速させることが期待されています。
今後の課題と展望
iPS/ES細胞技術、特に脳オルガノイドを用いた精神・発達神経疾患研究は目覚ましい進展を遂げていますが、実用化に向けてはいくつかの課題も存在します。
- オルガノイドの成熟度と再現性: 現状のオルガノイドは胎児期や発達段階初期の脳を模倣している側面が強く、成熟した脳の機能や疾患病態を完全に再現するにはさらなる技術改良が必要です。また、オルガノイド間のばらつきを抑え、高い再現性を確保することも重要です。
- 生体脳との乖離: 血管構造の欠如、免疫細胞の不足、全身性因子との相互作用の欠如など、生体脳とは異なる点も多く、オルガノイドでの知見を生体での病態とどのように結びつけるかが課題となります。
- 解析技術の高度化: 作製したオルガノイドの構造や機能を詳細かつ網羅的に解析するための技術(シングルセル解析、高度なイメージング、マルチ電極アレイなど)のさらなる発展が必要です。
- 倫理的側面: 脳組織を模倣したオルガノイドが高度化するにつれて生じる倫理的な議論にも対応していく必要があります。
これらの課題を克服することで、iPS/ES細胞および脳オルガノイドを用いた研究は、精神・発達神経疾患の根本的な病態理解を深め、診断法の開発、そして有効な治療法や治療薬の開発へと繋がっていくことが期待されます。現時点では細胞移植そのものよりも、疾患モデルとしての活用や創薬への貢献が大きいですが、将来的には細胞治療の可能性も視野に入ってくるかもしれません。
まとめ
iPS/ES細胞技術、特に脳オルガノイドの登場は、精神・発達神経疾患という難治性の疾患群に対する研究に新たな地平を拓きました。患者由来iPS細胞を用いた疾患モデルや、生体脳に近い構造を持つ脳オルガノイドを活用することで、これまでブラックボックスであった病態メカニズムの解明が進み、新たな創薬標的の探索や薬剤評価の精度向上に貢献しています。
克服すべき課題は依然として存在しますが、技術開発と研究の進展により、これらのアプローチが精神・発達神経疾患に苦しむ人々のための革新的な診断・治療法開発に繋がる未来が現実味を帯びてきています。セルテラピー未来図鑑として、この分野の今後の動向に引き続き注目してまいります。